2007年2月12日 (月)

貧乏な人にお金をすべて出してもらうのもたまにはよい

昨日、日本橋で人の買い物に付き合った。

探しているものはどこにでもあるのだけれど、安い店、値切れそうな店となるとなかなかなくて、おたがい面倒になって適当なところで手を打った。

前にも誰かに言ったが、わたくしは考えながら人と話をすると、自分がどこを歩いているのかまったくわからなくなる。なかなか面白い会話だったので、昨日も案の定そうなった。

無駄に歩いて余計に疲れた。

7973180_796b63dd51_m 年頭に教えてもらったもつ鍋屋まで足を運ぶ。

サルコジの言説についていろいろ話を聴く。デマゴジーとポピュリスムは違う、という。区別することに意味があるのかどうか良くわからないまま、かといってそのことは聞けず、異論があるとかなんとか言って話を続ける。

結局、デマゴジー的要素がポピュリストとしての振る舞いを誘発するようになることもある、というあたりで落ち着く。穏当過ぎてつまらない。この人のデマゴジーの定義が良くわからなかったのであまり納得していない。この問題について文章を練ってどこかに発表するとか言っていたけど、まだまだ検討を要するだろう。

それにしてもサルコジは相当なやり手である。

そんなことより、もっと盛り上がったのはあの人がレズビアンかどうかということ。男性恐怖症がレズビアンたらしめている場合、そのレズビアン的メンタリティーは消極的なものにとどまるから、そういう人はやはりレズビアンとは呼べないんじゃないか。とかなんとかかんとか。

帰りの電車で二重国籍の功罪について話が及びそうになったがこれはまた次回。おべんきょするつもり。

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2007年2月 8日 (木)

シャルロット・ゲンズブール

この前、なかじまくんに、プロレス好きに「『週刊プロレス』毎週読んでんの?」と質問するのは、フランス好きに「ゲンズブール毎日聞いてんの?」と尋ねるようなもんで、馬鹿にしてるみたいだ、と言われました。

確かに、フランス地域研究をやっているからといって、「フランス好き」という言葉でひとくくりにされ、しかもセルジュ・ゲンズブールみたいなやくざなムッシュのことが好きだと決めつけられたら、腹が立ちますね。

そのほかにも、「フランス語を話せるようになりたい=フランス人になりたい」というおばかな等式を信じきって疑いもしない人が沢山いるようで困りますよね☆(一応書いておくと、これは絶対になかじまくんのことではないですよ)

あと、フランスの事を勉強しているのは、フランス人のマドモアゼルと付き合いたい、あわよくば結婚したいからだ、と考えてしまう人もいるみたいですね。そんな極度に単純な人はいないと思いますけど。

というわけで、なかじまくんには失礼なことを言ってしまいました。ごめんなさい。

来年の冬に、アメリの喫茶店で、フランスパンをもってトリコロール柄のスカーフにボーダーシャツを着たぼくが、その喫茶店ですでにクロワッサンとカフェオレを味わっているなかじまくんと待ち合わせをして、エッフェル塔や凱旋門でフランスの素晴らしさなるものを体感し、締めは、モンパルナスにあるゲンズブールの墓で、ジダンをお供えし、「69年はエロの年」を一緒に歌う約束をしたので、なかじまくんと仲が悪くなると、この計画が無しになってしまいます。

こういう捏造されたステレオタイプを信じ、フランスに対してナイーブなイメージを抱くなかなか素直な多くの人々のためにも、この計画は敢行しようと思います。これで自分が「フランス好き」であると自分からアピールできるかもしれません。そういうふうにひとくくりにされても腹が立たなくなるようになるかもしれません。もちろん、冗談です。

最初、セルジュの娘のシャルロット・ゲンズブールの動画を幾つか貼ろうとしていたのだけれど、長くなったので続きはまた今度にします。

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2007年2月 6日 (火)

縛りつける前に 優しくなんかしないで

彼がCDを借りたいというので、半額セールをやっている某大手蔦屋に行ってきた。

やさしいので何でも良いと言ってくれる彼だが、特に好んでいるのが鬼束ちひろさんらしく、まとめて全部借りた。

デビューしたての頃の歌は聞き覚えのあるものが多かった。

歌詞を復習することにする。

とりあえず、目についたものの引用を一箇所だけしてみると、


貴方に聞かせられるような 綺麗な言葉が見当たらない
卑屈になって叫ぶ私を 縛りつける前に 優しくなんかしないで
(「眩暈」)

とある。
誰かも似たようなことをよく言っていたような気がする。

「似たようなこと」として乱暴にまとめるのはよくないのかどうか。

そして

「卑屈になって叫ぶ私」に対して、「優しく」することより「縛りつける」ことを優先してもいいと、あえて勘違いしてみることは戦略的に有効かどうか。

「私」によるし、戦略によるし、何をもって有効とするか、による。当たり前。具体的なケースがいる。自分の記憶のなかをしばしうろうろしてみる。

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2007年2月 5日 (月)

アレが長い間止まるとき

258873159_0fe37e7f0b_m 最近、おべんきょの時間を4分の1くらい割いて小説を読んだり映画を見たりしている。

『博士の愛した数式』で一躍有名になった小川洋子さんの作品を初めて読んだ。『妊娠カレンダー』(文春文庫)。芥川賞受賞作品(1991年)。30分もあれば読める短編である。

書かれているのは、まず主人公と同居している姉に子供ができて、姉の様子がだんだんと変貌していく過程である。姉の食事を担当している主人公は、食事面以外でも生活に変化が生じていって、それまで隠されていた感性がだんだんと表面化していく。

時間がたつにつれて、おなかの子供はだんだんと大きくなってくる。新しい命が生まれようとしている。しかし、この子は一体誰なんだ。ほんとに自分の子なのか。姉は違和感をもつ。

主人公も同様だ。この姉は一体誰なんだ。料理にけちをつけ普段食さないものを、一心不乱に腹におさめるこの姉は。赤ん坊が姉をこんな風にしたのだ。212057456_08f7361af1 赤ん坊のために、農薬たっぷりのグレープフルーツで作ったジャムを作ろう。姉はこのジャムを美味しいと言ってくれているのだしかまわないだろう。

と、僕が書くと、何でもない作品のような印象を与えてしまうかもしれないが、淡々とした冷たい筆致で書かれていて、妙に不気味な雰囲気が楽しめる。

何で人間は子供を産むのか。自分の生についてもよくわかっていないのに、よくわからないまま生命を産み落とす。ほんとうに奇妙だ。

この主人公の振る舞いは何なんだろう。これは確かに「悪意」であると言える。しかし、この悪意は非常にありふれていている。ものすごく自然なものとして、誰にでもある悪意のように書かれている。たしかに、生まれてくる子供の誕生を祝うのは当然のことであるとされている。しかし、ほんとうに当然なことなんだろうか。

良い小説を読むと非常にナイーヴな気持ちになることができる。しかし、それが良いことなのかどうかはわからない。

良い小説でありすぎてつまらないと感じる人も多いと思う。良い小説が何か、ということもよくわからないのだけれど。

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新秩序のなかのマリー

Marieantoinette

日本でもうすぐ『マリー・アントワネット』が公開される。前からずっと楽しみにしていた。『ロスト・イン・トランスレーション』のソフィア・コッポラの作品。

日米仏、三ヶ国の予告編を見てみた。あわせて30回は見た。

[日本]http://www.ma-movie.jp/trailer/large.html

[米]http://www.sonypictures.com/movies/marieantoinette/clips/?clip=psp_trailer

[仏]http://www.marieantoinette-lefilm.com/

予告編から受ける印象はそれぞれ少し異なる。

日本ヴァージョンは、マリー・アントワネットに対して、観衆が共感を抱くことのできる作品として、この映画を紹介している。
贅沢三昧で、悩みなんてないようにみえる彼女への世評は冷淡で、そのために彼女にも虚無感に駆られる瞬間がある。そんな悩みなどつゆ知らない世間は、旧体制の悪の象徴として彼女をとらえる。
多くの人が、一度は悩んだことのある、自分の内面と外見や評判のずれは、王妃も共有するものであり、マリーも、同じ一人の女である。この予告編からそんな印象を受ける。

アメリカヴァージョンは、日本ヴァージョンと総じてよく似ている。彼女の心の空白がやはり強調されている。違っているのは、ナレーションが、マリーの母である、という点。自分の娘を皆に紹介するという形をとっている。あとは、彼女の「スキャンダル」「噂」「セックス」「名声」といった、非道徳的行為に走る彼女の姿が強調されている。

日本ヴァージョンはこの点を削ぎ落としている。日本では、性的なイメージを強くつけると、観衆は、感情移入しにくいということなのだろうか。

フランスヴァージョンは、日米と全然違う。まず音楽が、予告編冒頭から最後までニュー・オーダーの「Ceremony」で統一され、この映画の新奇さがアピールされている。仏版は、ナレーションが挿入されていなくて、日米ヴァージョンほど説明的ではなく、もっともテンポが良い(が、逆に言えば、一番雑)。マリーの内面は、日米ヴァージョンほど強調されず、彼女の豪奢さと性的奔放さが前面に出て、むしろ彼女の特殊性が強調されている。この映画を見れば感情移入できる、という印象はあまり受けない。

この映画のキルステンさんはほんとに魅力的である。これはものすごく不細工な瞬間と、ものすごくかわいい瞬間があるからだと思う。愛人と対面してお菓子を口に入れるシーンのかわいさと言ったら、ない(日本版にはこのシーンは省かれている。反省すべし)。

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2007年2月 4日 (日)

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ツタヤが半額だった。

ダイアナ・クラールとかジョン・スコフィールドとか売れ線のジャズが数枚。「Tokyo Luxuary Lounge」とかラウンジ数枚。ハウスも数枚。いろいろ借りる。

5年前くらいから、自分が売れ線のCDで十分満足できるということに気がついている。

「あえてインディーを聴いてます」というような態度が気に食わなくなったせいなのか、「あまり人が聴いていないもの」をあえて選ぶという態度を単細胞で軽薄だと感じるようになったのか。

メジャーとインディーならインディーの方が好きという輩に理由を聞いてもあまりちゃんと答えてくれなくて、この人あんまりわかってないんだろうなとうんざりしてしまって、自分のなかにもそういうスノッブな心性があると気付かされて余計嫌になったのか。

よくわからない。メジャーとインディーを意識しても仕方ない。

それはおいといて、最近、ハウスのCDが沢山入荷されている。今聴いているのは「house of OM colette & dj heather」で、女性ヴォーカルもの。とりあえず4つ打ちではある。

前にも書いたけど、ハウスを聴きながらおべんきょすると非常にはかどる。特に爆音でかけると、少なくともハウス以外の音楽を聴きながらやるより集中力が倍増する。

癖になってしまってハウスがないと勉強できないということになりかねないので、習慣にはしないようにしている。

ちょっと思ったんだけれど、夜中クラブで踊るのとおべんきょするのとは自分にとってある意味では等価なんだろう。どちらにしても、多かれ少なかれ、情動を消化する手段みたいなところがある。実際、おべんきょを真剣にやり始めてからクラブには行かなくなった。行く必要がなくなったんだと思う。

で、今日は、ハウス聴きながら例のナポレオン本を翻訳した。今、訳しているところは経済関連のところで、もともと他の分野よりも興味の薄い分野だしわかっていないので訳してていまいちピンと来ないところがたくさんあって辛い。ハウスに慰められてはかどった。

トリヴィアだが、フランスで減債基金が導入されたのは1799年で、イギリスの減債基金(1717年)に比べるとやや遅い。

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マダム・マルソーの本音

今晩何かするかと思ってたんだけれど、わたくし、昼から6時ごろまで用事があり、家を離れていて、用事の間に着信があるのかと思いつつも、結局何もなく、普通に夜ご飯食べてシャワー浴びて今に至ります。

さっき、後輩からメールがありました。大学院2年間ではいくらくらいお金がかかるのかとか聞かれたので教えてあげたところ、「ありがとうございました!」と返事が来て、なぜかわかりませんが本気で嬉しかったです。

だんだんと年をとってきているということなんでしょうか。「何か分からないことがあれば遠慮なくどうぞ」とか、やさしく返信して、これって下心なのかしら?と自分で思いました。同時に、自分で言うのもなんだけど、下心ではないんだろうと思います。こちらがわたくしの本音です。

しかし、この人はちょっとかわいかったりするので、そのこととやさしくするのは無関係なんだと強弁しても、やっぱり説得力がなかったりするのかしら。

さっき、ソフィー・マルソーが出てる宣伝を見てました(下記参照)。彼女は何か格好いいことを言っているんですが、これは彼女の本音なのだろうか、ということと問題は似ているかもしれません。

彼女はギャランティをもらってこれに出演しています。だから、もし、彼女が「ここで言っているのは私の本当に思っていること」と言った場合(そんなこと言うわけないんだろうけど)、信じることはできるんでしょうか。できないでしょう?

ケースバイケースですけどね。言葉って通じないものなんでしょうか。

フランス語のおべんきょ
http://www.youtube.com/watch?v=kYNyEkCqhV4&mode=related&search=

Je veux toujours rester aussi belle au fil des jours
et conserver l'éclat de la jeunesse.
Aimer chaque jour de ma vie,
Profiter de chaque instant.
Vivre intensément.

簡単なディクテーションですね(aussiがあまり自信ないけど)。Vivre intensément(「濃密に生きること」)を、「豊かな時間を人生に重ねていくこと」って訳すのは許容範囲かしら。

そもそも、ソフィー・マルソーって美しいんですかね。

*最近、「ソフィア・コッポラ」コミュに書き込みしたら、おしゃれ系の人がやたらとのぞきに来るようになったので(もちろん大歓迎です)、ソフィー・マルソーで対抗してみました。

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美しい国のために

美しい国のために、もっともっと日本語を勉強しなくてはなりません。

これ→http://atok.net/testone.php、受けてみました。

こんな点じゃ、安倍さんに怒られちゃう。満点取らなきゃ。

これ→http://atok.net/allscore.phpによれば、

1位 : 10代 (66.95点)
2位 : 40代 (66.80点)
3位 : 30代 (65.97点)
4位 : 60代以上 (65.25点)
5位 : 50代 (65.12点)

で、「最近の若者は日本語を知らん」とか思ってたのですが、このテストによれば、相対的には全然そんなことないみたいですね。

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法善寺での一夜

麺喰いさんとその連れ合いとわたくし、そして元お寿司レコード取締役で、もつ鍋を食べた。

麺喰いさんとは、去年のゴールデンウィーク以来、久しぶりに会った。その新しい連れ合いの、小さなお披露目会。それが今回の会合の主目的である。

すっきりした細身の体型に美形の顔立ち、いやみの一切ない気さくな話し振りのこの彼女は、ベルセバを中心にアコースティックの響きが温かい柔らかなポップスを愛好している、趣味の良い人だった。麺喰いさん、またいい人を見つけたなと軽く嫉妬した。

二人の話によると、友達の紹介で知り合ったらしい。異性を交際目的で紹介する場合、往々にして、ハズレしかないくじびきみたいになってしまうものだが、このような当たりくじってあるんだなと変に感心した。運も実力のうち、か。

その後、取締役の知り合いのバーに行って、パンダさんが合流し、再び呑む。取締役から「二極化時代のレコード販売戦略」を聞く。議論を少し。

とても楽しい夜だった。

麺喰いさんは家に泊まりに来て、6時間くらい話し込んだ。わたくしは、どうも、「どSでどM」らしい。

「身長180センチ以上のバレーボール選手(バスケットボール選手)で、テニスなどスポーツの好きな人」を紹介してもらうよう頼んだ。当たりくじは見つかるかどうか。

今度の土曜日に、わたくしの家で、呑み会を行う計画があるらしい。やってもいいのだが、そこに参加予定のひとりは、ワイン、日本酒等酒類を座椅子やコタツに5回以上、しかも故意にこぼしたことがある。彼は、家で呑み会があるたびにずっとこぼし続けてきて、反省の色があるどころか、むしろあるのは悪意だったりするので、呼ばないほうがいいかなあと思っている。

といっても、根はいい人だし、やめて欲しいとわたくしも前から重々言っているわけで、彼も今度こそは注意しやめてくれると思う。

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